震災を語り継ぎ、未来に向けて歩む双葉町・浪江町を訪ねる
三重県在住。愛読書は時刻表。暇さえあればリュックひとつで旅に出かける旅色LIKESライター・なおです。2011年3月11日に起きた東日本大震災から12年が経ちました。これまでに石巻や女川、南三陸、陸前高田などいくつかの被災地を訪ね地震、津波の恐ろしさ、人間の無力さを肌で感じてきました。未だ震災以前の生活に戻れない人や生活を元に戻したくても戻せない人もいます。今回は、帰還困難区域が残る福島県双葉郡双葉町(ふたばまち)と浪江町(なみえまち)を、今年3月に初めて訪ねました。
目次
震災の記憶を後世に残す「東日本大震災・原子力災害伝承館」
双葉町と浪江町は、福島第一原子力発電所の北側に位置する町です。いわき市から国道6号線を走って来たのですが、ロードサイド店舗は震災の時のまま遺され、周辺の民家に人影はありません。12年前の“あの日”のまま時が止まっているようでした。
まず訪ねたのは双葉町の「東日本大震災・原子力災害伝承館」。その名の通り震災と福島第一原子力発電所の事故を後世に伝えるために造られた施設です。この日は震災から12年の節目の日の翌日ということもあり、たくさんの方が来場していました。かなり広い敷地の中に建っていますが、震災の前は集落のあった場所。津波被害に遭いすべての建物が失われました。
らせん階段の周りに掲げられた原子力発電所の事故の様子。水素爆発の映像がテレビで流れた時「この先日本は一体どうなるんだ」と不安に駆られました。映像を見た私がそうなのですから、地元の方は生きた心地がしなかったことを想像します。
根こそぎさらわれたポストや漂流したランドセルなどの展示を見て、津波の威力や無情さをひしひしと感じました。
福島第一原発では、約13メートルもの津波が施設内の全電源喪失を招き、結果3施設の水素爆発をひきおこしました。原子力は利便性が高いものの、ひとたび事故が起きればとてつもない犠牲と損害を発生させます。頭ではわかっているのですが、事故は起こらないだろう、とどこか安易に考えていた結果です。事故が起きないとその後の大変さがわからない、人間の悲しい性を感じます。
一方で支援の輪や応援メッセージも被災地に数多く寄せられました。あの時の日本は全体が助け合いの精神で満ち溢れていたのだと思います。
応援の輪といった人間の温かさを感じた半面、非情さを感じる場面も。福島県産の米や桃、肉用牛などの特産品に対する風評被害に桃の価格は全国平均を大きく下回り、肉用牛も震災前より高くなったとはいえ平均以下。厳しい状態をデータから知ることができます。
長きにわたる除染活動によって、まだモニタリングは必要なものの、多くの地域で事故直後のような放射線量はもうなくなっています。避難区域を解除された地域も増えてきました。コロナが流行りだした時もそうでしたが、農産物の被ばくについても情報を見極めて「正しく恐れる」気持ちが必要なのではないでしょうか。
伝承館の窓から流れる海は、穏やかです。12年前、この海が荒れ狂い、人々を町もろとも飲み込んでいったとは俄に信じがたいです。改めて地震や津波の怖さを知り、原発事故がもたらす被害の大きさだけでなく、人のやさしさとエゴも知ることができました。震災で多くを失ったこの町が、過去を顧みつつ再生に向かって復活していくことを願ってやみません。
◆東日本大震災・原子力災害伝承館
住所:双葉郡双葉町大字中野字高田39
電話:0240-23-4402
開館時間:9:00〜17:00(最終入館16:30)
休館日:火曜日(祝日の場合は翌平日)、年末年始(12/29〜1/3)
津波の到達高さから浪江町を見渡す「福島県復興祈念公園」
双葉町の東日本大震災・原発災害伝承館を後にし、車を少しだけ北に走らせ浪江町に入ります。
荒涼とした原野の中にぽつんと「見晴台」があります。2025年の完成を目指す福島県復興祈念公園の敷地内に臨時で建てられていて、公園の整備工事を行う平日だけ開いているそうです。
◆福島県復興公園
住所:福島県双葉郡浪江町両竹本町1
展望台の上には、地上約16.5メートル示す標識があります。津波が来た高さです。そんな大きな津波が来たなんて信じられませんが、人々の生活や財産、そして大切な命を奪っていったのです。もう少しだけ車を走らせると福島県最東端の地・請戸(うけど)港があります。かつて栄えた港の面影はありませんが、近くに福島県初の震災遺構となった建物があります。
福島県初の震災遺構「請戸小学校」
港周辺に暮らす児童が通っていた小学校です。この地域に唯一残された建物。長きにわたる帰還困難区域の解除を受け、震災遺構として整備され一般に公開されることになりました。
津波は、2階のベランダの下まで届きました。そのため、1階の窓は一切なく大きな被害を受けていますが、2階は原形をとどめています。
中に入ると荒れ果てた教室に“あの日”の出来事がストーリー仕立てで解説されています。“あの日”まで、子供たちの元気な声で賑わっていたことが目に浮かびます。
天井は剥がれ壁や床はひどく傷んでいます。学校の電気を一元管理していた配電盤も津波で流され、時計は15:37で時がとまっていました。
給食を作っていた配膳場の前にはがれきの山が。大切に使われてきた備品も無残な姿になっています。
請戸小学校に通っていた児童たちは近くの大平山(おおびらやま)へと避難。当時の大平山は人が登る山ではありませんでした。4年生の児童が登山口を知っていたことで避難に成功。おかげで犠牲者を出すことがなかったようです。
地震が起きた時、卒業式の準備をしていた体育館は、床が大きくたわんで波打ってしまっている一方、津波が届かなかった階上部分は柵なども残っていて痛みが少ないことがわかります。津波の恐ろしさを改めて実感します。
2階は展示室になっています。2013年に造られた模型はかつての請戸港や周辺の姿を復元したもの。住んでいた人たちの思い出が綴られています。町は消えてしまったけれど、思い出まで消されることはありません。ここに住んだ人々の心の中にしっかりと息づいています。
◆震災遺構 浪江町立請戸小学校
住所:双葉郡浪江町請戸持平56
電話:0240-23-7041
開館時間:9:30〜16:30(最終入館16:00)
休館日:火曜日(祝日の場合は翌平日)・年末年始(12/28〜1/4)
※天候・災害等により臨時休館する場合もあります
※お出かけの前に公式HPをご確認下さい
賑やかな浪江の観光拠点「道の駅なみえ」
請戸小学校では震災で時が止まった浪江の姿を見てきましたが、10年の時を経て町は一部避難区域を解除、未来に向かって歩き出しています。そのシンボル的存在といえるのが「道の駅なみえ」。
看板店舗は、道の駅初出店となる「無印良品」。観光客だけでなく地元の方も日用品を買い求めることができる施設で、駐車場が満車になるほど賑わっていました。私はいわきの温泉に入る予定なのに忘れたタオルをゲットしました。
フードテラスはメニュー豊富。なかでも港町だけあって海鮮系が充実していますが、ここに来たらやはりアレを食べたい。
なみえ焼きそば! 1950年ごろ浪江町で生まれたソウルフードです。これが食べたくてお腹を空かせてここまで来ました。力仕事が多かった男性の腹持ちをよくするために使われる通常の3倍の太さの麺と濃厚ソースが特徴。いくらでも食べられます。皿には「何事も馬九行久(うまくいく)」の文字が。九つの運気をあげる縁起のいいお皿で提供されます。
◆道の駅なみえ
住所:双葉郡浪江町大字幾世橋字知命寺60
電話:0240-23-7121
営業時間:10:00〜18:00
定休日:毎月最終水曜日(なみえの技・なりわい館 大堀相馬焼のみ毎週水曜日)
おわりに
2020年3月、帰還困難区域の解除を受けて常磐線も復旧し、9年ぶりに電車で来ることが可能になりました。少しずつ復旧は進むものの2万人を超えていた人口は未だ1,000人超程度。まだ帰還困難区域が町の多くを占め不安が残ることや避難先で始めた新たな生活に馴染んできたということもあり、故郷に戻ることを諦める住民が多くいます。
震災、原発事故の影響を未だ色濃く残す双葉町と浪江町ですが、未来に向けて歩きだしていることも事実です。経験をバネに、より一層魅力あるまちにすることで、元いた方だけでなく、新たな住民を呼び寄せることができたら最高だなと思いました。